無添加書道 / 書道家 遠藤夕幻 ~ mutenkashodo ~
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【連載】雄勝硯物語 - 10/まだ始まったばかり

当ブログで全10回にわたって掲載してきた「雄勝硯物語」も今回の更新で、ひとまず終了となります。

現状、正直なところ私には、このような弱小の自身のブログで掲載するぐらいしか、被災地の復興支援に関わることができませんでした。ただ、それでも「なにもしないよりはマシ」と思って、私自身が大好きな町・石巻市雄勝町にスポットを当てて、発信し続けております。

この“なにもしないよりはマシ“という些細な活動が、私個人に留まらず、このブログを読んでくださった方、一人でも多くに広まれば良いな・・・と、願ってやみません。そうすれば、被災地のことを“知り”、何かしら“動く”人が、少しずつでも増えるはずです。^^

誰かの考え方や行動を変える、ということは非常に難しいことですが、自分自身の考え方や行動を変えることは、案外簡単にできるはずなんです。きっと、そういう小さな小さな出来事の積み重ねから、大きなことを変えていけるだけの“力”に繋がるのではないでしょうか。

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石巻市雄勝町 Cafe「縁」~EN~ (2013年9月,遠藤夕幻・撮影)

雄勝町のど真ん中あたりに「Cafe 縁 ~EN~」がオープンしたことにより、町の人たちや市外県外から訪れた人が集まる場所ができた。ここのオーナーさんとは、2011年のボランティアの際に大変お世話になり、それからというもの、気さくに話せる仲になった。「縁」を訪れたこの日も、お互い再会を喜び、話をした。


石巻市雄勝町 Cafe「縁」~EN~ 店内 (2013年9月,遠藤夕幻・撮影)

東京の街中にあってもおかしくないぐらい、お洒落で綺麗な店内。
メープルラテが出てきた一瞬、ここが被災地だということを忘れている自分に驚いた。

Tさんは、こんなことを話してくれた。

「雄勝の皆が、気軽に集まって話せる場所、帰って来れる場所を作りたかった。カフェをオープンして、顔見知りのおばちゃんたちが集まって来て、カフェでくつろぎながら大きな声で笑っているところを見れた。・・・そのとき、なんだかすごくホッしたんだよね。」

そういうTさんもまた、私といろいろな話をしながら、大きな声で笑ってくれた。
嬉しくて、なんだか込み上げてくるものがあったけど、ぐっと堪えて、涙を我慢した。


石巻市雄勝町 水浜地区 「成澤のかき」看板 (2013年9月,遠藤夕幻・撮影

雄勝町内の水浜地区に行くと、真っ先にこの看板が目に入る。私が書いた字が、東京から数百キロも離れたこの土地で、こんなにも大きな看板として使われているというのは感慨深い。

とてつもなく美味しい牡蠣を、丹精込めて、愛情込めて育てている成澤さんご夫婦。
東北の親戚のおばちゃん、みたいになってくれた。それが、田舎のない私にとってどれだけ嬉しいことか。多くを語る必要もなく、ただただ嬉しい。


石巻市雄勝町 水浜地区周辺 雄勝湾 (2013年9月,遠藤夕幻・撮影

まるで何事も無かったかのように静かで穏やかな海。「成澤のかき」の新工場の前に広がる海は、ひときわ美しく、碧く深く見えた。

2012年の夏、初めて成澤さんの船に乗せてもらって、牡蠣の養殖場を見せてもらった後に、ご主人が言った言葉を今でもよく覚えている。

「牡蠣は、面白い」

そして、今年の夏、奥さんは私にこんなことを話してくれた。

「ここはいつまで経っても被災‘地’には変わりないけど、そろそろ被災‘者’は卒業かな」

・・・願わくば、このまま何事もなく、成澤さんご夫婦が牡蠣に携われますように。
前向きで、決して弱音を吐かない、元気で明るい成澤さんたちが、私は大好きだから・・・。心の底から、幸せを願う。


石巻市雄勝町 硯職人・遠藤市雄さん工房2 (2013年9月,遠藤夕幻・撮影)

雄勝町の取り壊されてしまった旧支所の奥のほう。
ひっそりと建つプレハブ小屋が、私の敬愛する硯職人・遠藤市雄さんの工房だ。


石巻市雄勝町 硯職人・遠藤市雄さん工房3 (2013年9月,遠藤夕幻・撮影)

震災直後には、なにも無かった。硯を彫るための鑿の一本さえ無く、60年以上硯を彫り続けて生きてきた市雄さんが、1年以上硯を彫ることが出来なかったのだ。

それが今年は、どうだろうか。機材が並び、彫りかけの硯が見える。
かっこいい市雄さんが帰ってきた。硯を彫る背中は、誰よりも頼り甲斐のある大きな背中に見える。


石巻市雄勝町 硯職人・遠藤市雄さん工房4 (2013年9月,遠藤夕幻・撮影)

市雄さんは、私が工房を訪れると、いつも気さくに話してくれ、自身の作品を惜しげもなく見せてくれる。ちなみにこれは、雄勝町の玄昌石を使った、旅館やホテルに置く「ソープ置き」だそうだ。


石巻市雄勝町 硯職人・遠藤市雄さん工房1 (2013年9月,遠藤夕幻・撮影)

しわくちゃで、年季の入った手。これぞ、職人の手。

「これは、なんだと思う!?」

東北訛りの市雄さんが、これはまだ試作品なんだけどね、と言って私に問いかける。

「なんて言うんだ?・・・そうそう、宝石入れだ。」

アクセサリーを入れる蓋付きの箱。しかも、雄勝の石で出来た、市雄さんが作った物。
なんて贅沢な物なのだろうか!と、思うのは私だけかもしれない。

硯を造る傍ら、市雄さんは依頼を受けた物は何だって作る。それが、プロの職人である。
雄勝の石を使った新たな可能性を垣間見れた。

市雄さん、どんどんその職人の腕を奮ってください!私は、心の中で歓喜した。


石巻市雄勝町 雄勝湾の風景2 (2013年9月,遠藤夕幻・撮影)

これまで、2011年から雄勝町と関わってきて、私が出会った雄勝町の人たちは、こんなにも強く、美しく生きている。悲しい出来事もそれはもう、たくさんあったことだろう。厳しい現実を突きつけられ、眠れない夜をどれだけ過ごしてきただろうか・・・。

それでも、皆、必死になって生きている。
未来に向かって、歩み始めている。

もちろん、個々にペースは違うだろう。だけど、後ずさりしたり、後ろ向きな人はいないように思う。少なくとも、私の知る限りでは・・・。この‘前向き’って、単純なことのように思えて、凄いことだと思うのだ。だから、雄勝に行って皆に会うと、私のほうが元気をもらえる。なんて、凄いことなのだろう。

そう、ようやく始まったのだ。新しい生活が。新しい未来が。


まだ、始まったばかり。


だからこそ、私は応援していきたいし、そこに少しでもいいから関わっていきたい。

雄勝町の皆さん、いつもいつもありがとう。これからも、よろしくお願いします。


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【連載】雄勝硯物語 - 9/まずは、“知ること”。

これまで書き続けてきた「雄勝硯物語」も、遡ること、2008年の事柄から書き始め、今回の更新でようやく2013年9月の時点まで追いつくことができました。

本当に微力ではありますが、石巻市の、雄勝町の、復興支援と思い綴っております。
少しでも多くの方々に、被災地の現状や、そこで生き、生活している人たちの声を届けられたら・・・と思います。

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石巻市 大川小学校前 向日葵 (2013年9月,遠藤夕幻・撮影)

2013年9月。
真っ青な青空の下、燦燦と照り付ける日光を浴びて、伸び伸びと成長した向日葵を前にして、私はシャッターを押した。青空と向日葵とは対称的に、私の気持ちは曇っていた。

ここは、石巻市の北上川沿いに位置する「大川小学校」前。
東日本大震災での津波被害で、小学校の児童と先生を含む、多くの命が儚く消えてしまった場所。

震災後、二度ほど雄勝町を訪れているが、いつも大川小学校の前を通る際は、素通りするしかなかった。この地を訪れていいものか・・・正直憚られていた。また、震災直後は、なにやら工事の車や瓦礫撤去の重機が立ち並ぶ中、バイクで東北の地を走り回ってる私がうろちょろしては場違いであり、「入ってはいけない土地」であろうと、勝手に判断していて、遠慮していた。

ただ、今年は雰囲気がだいぶ柔らかくなっており、私もせめて手を合わせるぐらいは・・・と思い、ものの10分程居させていただいた。ただ、長居する空気感ではなかった。遺族の方々が学校の敷地内の奥にある、慰霊碑の前で手を合わせているのを横目に、場違いな人間は早々に立ち去ることにした。

命の重さ。それが失われたときの喪失感。計り知れないので、これ以上言葉に出すことは控えようと思う。


・・・様々な想いを抱えて、私は、大好きな雄勝町への道を急いだ。


石巻市雄勝町 国道398号 (2013年9月,遠藤夕幻・撮影)

今年の雄勝訪問は、ボランティア活動がメインというわけではなく、被災地の現状と実情の把握、そしてお世話になった方々への挨拶回りのための訪問であった。

私は、雄勝訪問前、正直自分がどうすればいいか、わからなくなっていた。
果たして、去年一昨年までの「絵と書を贈る」ボランティア活動が必要とされているのだろうか?被災地の方々が“いま”必要なことは一体なんなのだろうか?

もちろん、東京であれこれ考えていても答えが見つかるワケがない。

だから、今回は・・・「雄勝町との関わり方」と「被災地での今後の活動内容」、この二つの答え、もしくはヒントとなる何かしらの“きっかけ”が掴めれば・・・。

そんな想いで、雄勝町を訪れたのだ。


石巻市雄勝町内の主要道路の風景2 (2011年8月,遠藤夕幻・撮影)

まずは、「被災地の現状の把握」から掲載していこうと思う。

こちらの写真をご覧いただきたい。2011年8月に撮影した、雄勝町内の写真である。


石巻市雄勝町内の主要道路の風景1 (2011年8月,遠藤夕幻・撮影)

そして、今年撮影した、おそらく同じ場所の周辺の写真。
(*瓦礫が無くなり、風景が2011年当時とは変わり過ぎていて、同じ場所と同じアングルでの撮影が不可能であったため、推測での撮影になった)

現在は、ほとんどが更地になり、痛々しく散乱していた瓦礫は、全く消え去っていた。その変わりに雑草が生い茂り、瓦礫とは違ったもの悲しさを感じさせていた。


石巻市 北上側沿いの道 県道30号 (2011年8月,遠藤夕幻・撮影)

2011年8月撮影。
雄勝町へと続く、北上川沿いの県道30号の道からの風景。


石巻市 北上側沿いの道 県道30号 (2013年9月,遠藤夕幻・撮影)

上の写真のひしゃげたガードレールが、今年撮影した写真にも偶然写っていた。

津波に攫われてなにもなくなってしまった土地は、整地が済んだものの、空き地のままになっている。やはり、この土地に帰って来るのは難しいのであろうか・・・。2年以上が過ぎた今でも、新しい建物が建つ様子はない。


石巻市雄勝町 水浜地区周辺 雄勝湾沿いの道 (2013年9月,遠藤夕幻・撮影)

ここは、雄勝町内の水浜地区に続く道沿い。防波堤はなく、道路から海がとても近い。
バイクを停めて写真を撮影している際に、瓦礫のような石たちが、雄勝で採掘できる特有の石、『玄昌石』であることに気がついた。


石巻市雄勝町 水浜地区周辺 雄勝湾沿いの道 玄昌石の瓦礫 (2013年9月,遠藤夕幻・撮影)

雄勝の石の特徴は、紙のように薄い層が幾重にも重なり、二億五千万年もの歳月を経て石になったものである。雄勝の石は、重なった層の方向には割れやすく、縦に綺麗にパカッと割れるのだ。

ただし、層の方向以外からの衝撃にはかなり強く、この石の特徴を活かして生み出される“硯”は、格別に墨が良く磨れるのだ。
(雄勝硯に関して、石の特徴も含めた詳細は、別記で掲載予定)

未だに海辺に放置されたままの瓦礫や石材からも、“硯の里”と呼ばれる由縁を垣間見れた気がした。


雄勝町内をバイクで走り回り、私なりに、感じた被災地の現状は・・・

「瓦礫が無くなってきてはいるが、未だその爪痕は大きく残っており、とても“復興しました”とは言い難い、厳しい現状である。ただ、次回の更新の際に紹介する予定の、硯職人さんや漁師さんたちは、ひたむきに自分たちのできることに専念し、前に進もうとしている」

と、いった状況であった。


石巻市雄勝町 雄勝湾の風景1 (2013年9月,遠藤夕幻・撮影)

さらに、実際にそこに住む人たちはどう考え、どのように感じているのだろうか。
現在の雄勝町の様子や皆さんの気持ちを、何人かの知人友人に尋ねてみた。

「ボランティア活動をされる方は、一番多いときの10分の1程まで減った。もちろん、ボランティアに来てくれる人が少なくなったのもあるが、皆が仕事を始めて、平日仮設住宅にいないことが増え、ボランティアや集会等に参加できなくなってきた現状もある。・・・それはそれで、“仕事がある”ということだから、良いことのように思う」

「町中の瓦礫は無くなりつつあるが、硯会館の残った建物も旧雄勝支所も取り壊されてしまって、ここがドコがかわからなくなってしまったようだ。それが、なんだか寂しく思えてならない」

「このまま建物が無くなっていくと、まるで町のみんなの帰ってくる場所まで無くなってしまうようだ・・・。だからこそ、私たちが“帰って来れる場所”を作らなくてはならない」

「新しく町内に、大きな水産工場が建つ。そこで新たな雇用が生まれれば、少しでも町に人が戻ってくる気がする。そうやって少しずつでもいいから、町民が帰って来れる場所や環境が増えるといいなぁ」

「今はまだ、なにもかも整えている最中だけど、いつか行政も町も体制が整ったら、やっぱり私たちはここで漁業を続けたいから・・・。だから、そのためにも今からしっかりと準備をしておきたい」


・・・これから先の不安や寂しさ、それでも決して屈することのない、希望や未来を持った前向きな気持ち、そういったものが入り混じった複雑な言葉を、私は聞くことができた。


ここで、先に挙げた疑問の一つが、浮かび上がってくる。

『これからの被災地との関わり方』である。


これから、私たちには、何ができるのだろうか?
私たちがどのように関われば、被災地で暮らす方々が、より良い状態になっていけるのだろうか?


考えても考えても、明確な答えが出るとは限らないが・・・。
わからない、わからない。関係ない、知らない。と言っていて、果たしていいのだろうか?

否。

「自分たちが良ければ、それでいい」では、「私腹を肥やすだけ」では、これから先の被災地が、社会が、日本が、未来が・・・成り立たなくなってしまうはずだ。。。


まずは、“知ること”から始めてほしい。


“知る”ことさえできれば、何かが“変わる”はず。


ほんの少しではあるが、被災地の現状を“知る”者からの、ささやかなお願いである。


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【連載】雄勝硯物語 - 8/希望を石に託して

2011年の8月。
雄勝町を震災から半年と経たない頃に訪れた際は、みんな生きることに必死で、なんとか繋がった生命を大事にすることが精一杯、といった印象を受けた。


津波は、きっと多くの‘なにか’を掻っ攫い、奪っていった。

それは、家族であったり、友達や同僚。
はたまた、財産や家、仕事であったりするだろう。

そして、生きる糧や生き甲斐でさえ、いともたやすく奪っていったのだ。


私の尊敬する硯職人・遠藤市雄さんは、‘硯’を奪われていた。
2011年までの話は、【連載】一面の硯が繋ぐ、雄勝硯物語 - 4 にて紹介している。
本日、語らせていただくのは、その後の話。震災から1年半が経った頃である。


2012年 穏やかな雄勝湾

とても穏やかな海。ここ雄勝湾は、エメラルドグリーンに見える綺麗な色をした海だ。
この写真だけを見ると、まさかこの海が牙を剥き出しにして襲いかかってくるとは到底思えない。だが、それは現実に起こってしまった。


2012年 雄勝町 水浜周辺の風景

津波は、今まで人々が築き上げてきた‘信頼’であったり、‘繋がり’でさえ根こそぎ海の中に引きずり込んでいってしまった。かつては、一つの集落があった場所が、今ではただの更地である。これでは、ドコがドコだか分かりもしない。

親しい隣近所の人たちは、バラバラになってしまい、必ずしも同じ集落の人たちが同じ仮設住宅に入れるとも限らない。生活の環境や人と人との関係性も、ガラッと変わってしまった。

・・・自然災害だから。どうしようもないのかもしれない。
だが、どうしようもないからと言って、簡単に諦め切れるものではない。

人は皆、そんなに単純ではないし、強くもない。
たとえ理屈は分かっていても、心がその理屈通りに動くかどうかは、別である。


2012年 雄勝町 遠藤市雄さんの仮の硯工房2

ただ、私は幸運なことに、‘強き人’を知っている。
自ずから「わたしは強いよ」とは言わずとも、強く在ろうとして、それが自然と他者に伝わり、決して諦めない芯の強い人。腕は確かで、豪快さと繊細さを併せもつ硯職人を知っているのだ。


2012年 雄勝町 遠藤市雄さんの仮の硯工房1

仮の工房には、各地からかき集めた数種類の鑿と、工具が並んでいた。
去年の時点では、工房もなく、硯を彫るための道具は何一つ無かったはずなのに、たった一年で道具は揃い、そこには新しく彫られた硯が立ち並んでいたのだ。


2012年 雄勝町 遠藤市雄さんと撮影

市雄さんは、いつもの笑顔で、私を迎えてくれた。

「遠いところ、よく来てくれた」

・・・元気そうで何よりだった。
そこには、‘硯職人’の市雄さんがいたのだ。

2012年のこの時点では、伊勢神宮へ「700枚」の硯を奉納する仕事が来てると話してくれた。おそらく式年遷宮に関係することだろう。

もう「道具がないから彫れない」なんて悲しいことを言わなくて済むようになったのだ。

やっぱり、仕事をしている、硯を彫っている市雄さんはカッコよかった。硯を彫ることなら任せろ、という自信に満ち溢れた職人気質の人を、私は心から尊敬する。質問したことに対しては、詳しく教えてくれるが、市雄さんは、自分からはあまり多くを語らない。そういう仕事に関して、口数が少ないところも職人気質である。本当に格好良い。

私も市雄さんのようになりたいと、そう思う。
こんなにも強く、自分の仕事に自信があり、優しい笑顔ができる人に。


市雄さんをはじめとした、硯に関わる人たちは、今一度、石に希望を託している。
600年前より、雄勝の石は、硯に適しているとされ、石と共に歩んできたのだ。

600年前とは時代は違えど、やはり雄勝は硯の里、石と共に在るのだ。
復興の兆しは石にあり、市雄さんや雄勝の硯職人さんたちは、日々希望を彫っている。

希望を石に託して。




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【連載】雄勝硯物語 - 7/ そこで、生きる。

大きな津波のあった、運命のあの日から、どれほどの月日と時間が経ったであろうか。

「“まだ”2年しか経ってないのか」と、考えるか「“もう”2年も経ったのか」と考えるかは、おそらく人それぞれであろう。・・・ただ、遠く離れた土地に住む人にとっては、後者のほうが多いように思える。


実際に被災してしまった  ↑ 想いが強い 
東北生まれだ
東北に親戚がいる
東北に友達がいる
あいにく東北には縁がない  ↓ 無関心


関係性の距離感でさえ、遠く離れれば離れるほど、無関心に近づいていくのではないかと思う。もちろん、一概に言えるものではないし、私個人がそう思うだけで、例外などは在るはずだ。
ただ、そんな傾向にあるように感じるのだ。

せっかくなので、物理的な距離も気持ち的な距離も遠い方に、この記事が届くことを願う。


忘れないでほしい。


そこで、生きている人たちがいる、ということを。


考えてほしい。


まだ、なにも終わっていない。むしろ、始まったばかりだということを。


2012年 雄勝町 成澤さんの漁船 雄勝湾にて

私がこれまで、ずっと紹介し続けている雄勝町は、豊かな海に囲まれた漁師町でもある。
海産物が元気に育つ環境であり、海が綺麗で栄養満点なので、養殖業が盛んだ。

写真は、牡蠣の養殖業を営む「成澤のかき」の船上からの一枚である。
飛沫をあげ、海を走るこの光景に、漁師の世界を垣間見た瞬間であった。

成澤さんとは、ボランティア活動を通じて知り合い、ご縁があって、牡蠣のパッケージロゴを書かせていただいた。


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これが実際のラベル。この「成澤のかき」の字を揮毫させてもらった。
書く前に、船に乗せていただき、現場を見学させてもらい、さらには牡蠣も食べさせていただいた。そういった実体験をもとにして、この字を書かせてもらった。


2012年 雄勝町 獲れたての成澤のかき 雄勝湾にて

そして、これが実際の成澤さんの育てた牡蠣である。
雄勝湾で育った“成澤のかき”。

まさに、成澤さんたちが、ここで、生きているという証である。


2012年 雄勝町 成澤さんの漁船と綺麗な雄勝湾

今では、被災地、被災地と呼ばれてしまってはいるが、被災地である前に、そこで生きる人たちにとっては、故郷である。あたりまえなことを言うようだが、そこで生き、生活をしているのだ。

もちろん、生きていくためには、仕事をしなくてはいけない。

ただ、海産物では、今までの出荷基準を満たす検査以外にも、余計な「放射能検査」が増えてしまった。生食用の牡蠣を出荷するというのは、それだけでも厳しい検査が必要なのだと、成澤さんは言っていた。

それに加え、放射能検査もし、本来なら必要なかった検査代もかかる。大きな目でみれば、些細なことと言われてしまうかもしれないが、現場や実状はそうではない。大変なのだ。


例えば、「新しい水産物加工の工場を建てたい」となった際に、行政に申請すれば、支援金をもらうこともできるらしい。
支援金があれば、新しい水産物加工場も、比較的コストがかからないで、建てられるかもしれない。でも、行政に頼むと、かなりの時間が必要となる。その待ち時間が数ヶ月単位にまでなると、その期間は仕事ができない。仕事ができなければ、売り上げもないので、生活ができない。それでは困ってしまうので、じゃあ、自腹で工場を建てるしかない。でも、自腹で工場を建てたくても、津波の被害でそんな貯蓄もない。・・・・・・


これが、現実である。
こんな板ばさみ状態で、漁師を続けられなくなってしまっている人たちが、福島にも宮城にもきっと大勢いるはずだ。


そして、私にできることは、ほとんどなにもない。
話を聞くことや、こうやってお話として紹介し、被災地の現状を多くの方に知ってもらうような活動をすることぐらいが関の山であろう。

でも、なにもしないよりはマシ。そう思って、今もこうしてPCの前に構え、キーボードを打っている次第だ。


ほんの少しでいいから、ちょっとでいいから、目を向け意識を向けてみてほしい。
福島県産のものだから、宮城県産のものだから・・・とか、被災地産のものだから・・・と、頭ごなしに色眼鏡を通して見るのではなく、その先のもっと奥にいる、“人”を見てほしいのだ。


そこで、生きる人がいる。


被災地の現状をしる、一個人としての、ささやかな“お願い”です。

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【連載】雄勝硯物語 - 6/ボランティア活動

刻一刻と変わりゆく被災地の現状。
現地に住む方々は、口をそろえて言う。

「まだ未来(さき)のことは、わからない」と。

ただ、わからないなりにも、そこで生きていかねばならない現実がある。
誰かが、明確な“答え”を出してくれるわけでもない。

それでも、未来に進もうと歩み続ける方々を、私は知っている。雄勝町やその周辺の石巻市内で暮らす、あの人たちの笑顔を、私は今でも鮮明に覚えている。

これは、2012年8月に実施した二回目の「絵と書を贈るボランティア」の記録である。


2012年 雄勝町 ボランティア活動 水浜仮設にて

私たちのボランティア活動は、仮設住宅を訪問し、集会所や談話室を借り、一日そこにいる。だいたいは、朝10時~夕方17時頃までいさせてもらい、現地の方々と交流する。


2012年 雄勝町 ボランティア活動 水浜仮設にて2

ドコの仮設住宅にも、このような談話室が設けられ、地域の方々の交流やお茶会、私たちのようなボランティア活動の方々が使うこともある。
中には、全国各地から送られた支援物資やメッセージが保管されたり飾られたりしていた。私たち以外でも、こうやって雄勝を想う人たちが全国にいると思うと嬉しくなる。

2012年 雄勝町 ボランティア活動 森林公園仮設にて

私は、活動中は“好きな言葉”を色紙に書いて差し上げるようにしている。
あくまでも、重要なのは「あなたの好きな言葉を書きます」ということである。

現地の方々のお話を聞かせてもらいながら、その方々の好きな言葉であったり、座右の銘、教訓、心がけなどを教えてもらい、その言葉を色紙に即興で書いていき、書作品として仕上げて(もちろん、落款も押してから)、お贈りするのだ。

やはり本人の好きな言葉だからこそ、嬉しく思ってもらえるのではないか、と思うのだ。東北の地で、私の書いた作品を、家のドコかに飾っておいてもらえるのであれば、私はそれだけで嬉しい。

2012年 雄勝町 ボランティア活動 子どもたちへの書道指導

時には、仮設住宅にいる子ども達に書道の指導をすることもあった。
「僕もわたしも書いてみたーい!」という声に、応えないワケがない。時間に余裕のあるときは、こうして筆を持ってもらい、書の楽しさも知ってもらうのも、ボランティアの一環であった。


ここからさきは、実際に書いて差し上げてきた即興書作品の一部を紹介する。

2012年 雄勝町 ボランティア活動 作品/遠藤夕幻 書 3

2012年 雄勝町 ボランティア活動 作品/遠藤夕幻 書 5

2012年 雄勝町 ボランティア活動 作品/遠藤夕幻 書 4

2012年 雄勝町 ボランティア活動 作品/遠藤夕幻 書 2

2012年 雄勝町 ボランティア活動 作品/遠藤夕幻 書 6

2012年 雄勝町 ボランティア活動 作品/遠藤夕幻 書 

作品一枚一枚に、その人たちのエピソードがあった。
お一人お一人から、直接お話を聞けたことは、本当に良い経験であった。私たちは、「ボランティアに来ている」という意識ではなく、「ボランティアをさせていただいている」「逆にこちらが元気と活力をいただいている」、そう思って活動させていただいた10日間であった。

2011年と12年、2年間のボランティア活動で、合わせて約150~200枚ほどの書作品や似顔絵を仕上げ、現地の方々へ贈ることができた。これも一緒に活動してくれた「絵描き・くどう美樹」氏の協力のもと、2012年のボランティア活動では、雄勝支所のBさんにご尽力をいただき、各仮設住宅への連絡や鍵の開け閉め等の手配を行ってくださったのだ。

雄勝町の方々をはじめとした、100世帯以上の家庭に私やくどう氏の作品が贈れたと思うと、感慨深いものがある。

書道や似顔絵を通じて、私たちは、雄勝町の方々になにかほんの少しでも‘元気’や‘楽しさ’をお分けすることができたのなら、本望である。


そして、この記事の最後に、どうしても紹介したい一枚がある。

2012年 雄勝町 ボランティア活動 作品/遠藤夕幻 書 7

たまたま雄勝町の夏祭り、花火大会の会場で知り合った男の子。

「この子にもなにか作品を書いてあげてほしい・・・」
雄勝町内で顔見知りになり、仲良くなった方からの紹介だった。

津波で両親を亡くし、ひとりぼっちになってしまった少年。その口から出てきた言葉に、思わず私は、声を詰まらせた。

「‘魂’って書いてほしい」

・・・彼から放たれた言葉には、頼りなさと力強さが混在し、どこかに“凄味”が在ったのだ。これからどうすればいいかわからない、という漠然とした不安と、重くのしかかってくるような説得力の在る、不思議な声と言葉だった。

全力で書かせてもらった。
叫び出したくなるような衝動を、“魂”の一文字に込めた。

彼とは、このお祭り以来、会っていない。
それでも、東京に帰ってから何度も彼のことを思い出した。

ドコかで元気にやっているのだろうか。
健やかに、真っ直ぐに、大きくなってくれていればいいな、と思う。
どうか、どうか笑顔でいてほしい、そう願うばかりだ。

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洞爺湖夕幻 トボトボ歩く図

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