今回更新する内容は、石巻や雄勝で思ったこと、感じたことを率直に書こうと思う。
これを読んでもらった上で、読者の方が、どのように感じてどのように考えるかは、当たり前のことだけれど、“ひとそれぞれ”だ。だからこそ、ぼくは正直に書こうと思う。嘘偽りなく。そして、できる限り誰も傷つかない言葉で。
文章が長く続くが、できれば最後まで読んでいただきたい。
まずは、“知ること”から始めていただければ、幸いである。
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振り返ってみれば、2008年の広島県安芸郡の「筆まつり」で、雄勝の硯職人の「遠藤市雄」さんと出会ったことが“きっかけ”である。それから、2010年の8月に雄勝町を初めて訪れ、硯の産業会館で写真を撮りまくったことが、昨日のことのように思い出せる。あの時は、まさかぼくが個人的な勉強のために撮った写真が、貴重な写真資料になってしまうとは思ってもいなかった。
東日本大震災で、津波で、すべて流された。
家族・友人・家・金・車・町・硯・道・船・仕事・信頼・夢・希望・絆・繋がり・・・。
他人事では、なかった。「また、ここに帰って来よう」と思った町が、跡形もなく無くなったのだ。
だから、ぼくはその年の2011年8月から、雄勝町へ“里帰り”をするようになった。形としての町が無くても、人がいる。人がいれば、そこには町は在るのだ。
その後、4年間雄勝へ通った。毎年8月頃になると雄勝町に、でっかい荷物を積んだ黒塗りのバイクが出入りするようになったのだ。書道の道具を積み込んだバイクは、雄勝町内を駆け回った。
刻一刻と変わる被災地の現状。そして、2014年に感じたこと・・・。
まずは、少しずつではあるが、どうにかこうにか取り戻しつつ在るということ。
石巻市内まで出れば、手に入らない物はなくなってきた。一時期は、車やガソリンや電化製品など、入手困難な物はあったが、今ではそういう話は聞かない。サービスもある程度戻ってきた。市内の病院施設は通常どおり開いているし、温泉施設や総合体育館などもちゃんとある。
「石巻市 日和山公園 内の 鹿島御児神社の鳥居越しに見る 石巻市内の様子」だけど、勘違いしてはいけないと思った。決して、“元通り”ではない。震災の爪痕は、しっかりと目に見えるし、潜んでいるものもある。見え隠れし、スキを狙っている。
それから、これは非常に重要な部分である。ぼくも普段は東京にいるので、距離が遠いと気がつきにくい問題なのだが、現地に来れば一発でわかる。物理的な復興と、精神的な復興の度合いは、決してイコールではない。これは、断じて違う。
これから先、重要になってくるのは、なによりも“精神的な復興”である。
ぼくは、そう感じた。
そして、ここから先に書くことは、その精神的な復興に、ほんの少しでも役に立つのではないか・・・。そんな、遠藤夕幻なりの一つの“こたえ”を提示しようと思う。
4年も雄勝へ出入りしていれば、そこそこの人数の知り合いであったり、ある程度の顔見知りであったり、少数ではあるが毎年会う友人ができる。その毎年会う人の中の一人に、硯職人の「遠藤弘行」さんがいる。雄勝町で、唯一組合などには所属せず、個人で硯を彫り続ける弘行さん。
その弘行さんの営む、『エンドー すずり館』に、今年の雄勝&石巻訪問のきっかけをくださった『東日本大震災圏域創生NPOセンター』に深く関わるお二人を連れていくことが叶った。
弘行さんのお父様、盛行さんは、もともとは採石業のプロ。そして、採石を引退したのち、硯職人へと転身した盛行さん。その意志を引き継ぐ弘行さん。
見学に行くと、いつも石の種類の説明や、磨り比べなんかを体験させてくれる。これは、エンドーすずり館でしかできない、貴重な体験。それらを体験した、NPOセンターのお二人は、それはもうディープな硯と墨の世界に感嘆の声をあげるばかりであった。
話はいつの間にか多岐に及び、話が尽きないようだった。
そんな姿をみて、しっかりとお二人と弘行さんが、“繋がった”と思えた。
そして、“これだ”と悟った。
もう一方で、こちらは雄勝の町中の中央に居を構える『雄勝まちづくり協会』さんの「オーリンクハウス」。
おしゃれカフェな「縁 en」の店内は、雄勝町の憩いの場。
人と人とを“繋げる”ところとして、大活躍である。
やはり、集まる場所やもう一度来たいと思える場所があるのは、とても大切なことだと思う。
ちょうど、今月末まで展示スペースにて「伊達の黒船太鼓」のギャラリーが開催されている。
写真中央に写っているのは、リーダーの神山さん。
この神山さんも、ぼくの雄勝で大好きな人の一人。
お互いに連絡を取り合っていなくても、雄勝町内で車とバイクですれ違ったりする。
「あ、神山さんだ」「お、夕幻くんだ」という感じで、ちゃんとお互いの車とバイクを認識していて、立ち止まる。
今年なんて面白かったのが、神山さんらしき車が前を走っていたけれど、途中で車は左へ。ぼくは右へ。別々の方向に行ってしまった。だけど、後から、やっぱり神山さんだったみたいで、わざわざバイクを追っかけて来てくれた。
そのときは、ちょうど『きずなファーム』の笹井さんと本部で話している最中で、「こんにちは~、夕幻くんいますかー?」と神山さんが登場。図らずしも、伊達の黒船太鼓のリーダーときずなファームの代表が“繋がる”こととなった。
こんな感じで、展示ギャラリーでは、ぼくの書いたロゴのTシャツの写った写真も飾ってくれている。所々で、こうやって自分の書いた作品が関わっていると、嬉しくなる。と同時に、これまで培ってきた“ご縁”というものが、ここいらで活用できるのではないか・・・と閃いたのだ。
今回の訪問で浮き彫りになったのは、各団体の孤立化。
もちろん、中には協力し合って活動ができている団体もあるのだろうが、話を聞く限りでは、どうやら少ないようだ。また、各団体と町の人たちとの関わりも、ドコか“壁”のあるように感じてしまった。
ぼくが個人で動いて、雄勝に関わる者としては、比較的身軽だから、簡単に言ってしまえるのだけど、ここはあえて声を大にして言おうと想う。
『ほんのちょっとでいいから、寄り添えばいいのに』
どう考えても、そこに辿り着く。
ちょっとでいいから、手を出して。お互いその手を取り合って。
できないことはできないでいいし、できることはお互いに協力し合えばいい。
それだけでいいのだ。
だけど、それが難しい。
やれ、お金のため、だ。
誰と誰が仲が良くない。
あいつが成功すると、こっちはダメになる。
・・・お互いに足を引っ張り合ってどーするんだ!?
『雄勝のために』
それが一番大切なことなはず。もっともっと、シンプルなことのはず。
これは、雄勝に関わっているなら、決して忘れちゃいけないことだと思う。
だから、ぼくは
『繋げる役割を担う』
一つ、“こたえ”を出した。
「繋がる」じゃない。『繋げる』だ。
今までは、意図せずとも、あるがままでも「繋がる」ことがいくつかあった。
だけど、“繋げる”は、それを意識する。意図的に、繋げるのだ。
この人とこの人が出会えば、たとえぼくがその場にいない状況になったとしても、一度繋がってしまえば、物事は良い方向に進んでいくのではないか。そういう状況を、できるだけ多くつくっていければ、お互いがお互いを想って、寄り添って活動できるようになるはず。
これからのテーマは、“繋げる”でいこうと、そう決めた。
上の写真の猫は、震災後、オーリンクハウスやカフェ「縁」が出来たあとぐらいに、ひょっこり出入りするようになったらしい。つまりは、この猫ちゃんも、あの震災を乗り越えて“生き残った”ということだ。
そんな猫ちゃんの手を取って、ぼくは「また会おうね」と心の中でつぶやいた。
こうやって、手を握って。
「お疲れさま」
「今までよく頑張ったね」
「ぼくに何かできることはあるかい?」
「これからも宜しくね」
・・・そうやって言うことは、そうやって相手を想いやることは、ホントに難しいことなのだろうか。。。
貴重なお時間の中、最後までご覧いただきまして ありがとうございました。
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