無添加書道 / 書道家 遠藤夕幻 ~ mutenkashodo ~

【連載】一面の硯が繋ぐ、雄勝硯物語 - 1

*伝えていきたいことがあります。忘れてはいけないことがあります。
つらいことではあるけれど、決して目を逸らしてはいけないことがあるのです。

私一人では、伝えられることに限りがありますが、せめて「無添加書道」をご覧いただいている方々へ、被災地の現状、そしてそこで今も生きる人たちの想いを、少しでもよいので知ってほしいと思うのです。

ここから先は、遠藤夕幻が実際に見聞きした内容をもとに書き表していきます。おそらく、主観も入ってしまうでしょう。ただ、すべては雄勝町のためと思ってのことです。どうか、ご理解いただければ幸いです。

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愛用の道具2

屋久島に行った際に購入した、「屋久杉の端材」を軸に加工してもらい、上質のイタチ毛を使い、特注に作っていただいた「屋久杉筆」。
制作は、滋賀県の「攀桂堂(はんけいどう)」さんに依頼。

鈴鹿墨の制作実演を見学した際、職人さんにその場で墨づくり体験をさせてもらい、自分でこねて作った「握り墨」。
(型にはめて作るのではなく、自分の手で握ったままの形を墨にするという製法)

どれも思い入れのある、私の愛用の道具たち。

その中でも、ひときわ強い想いを込めて使用する、一面の硯がある。


「雄勝硯」 作・遠藤市雄


産地は、宮城県石巻市雄勝町。
名は、裏に刻まれた「御留石」という文字にて判別できる。

御留石とは、かつて伊達政宗公に納められた雄勝硯が、大変気に入られたことが始まりで、その頃から伊達政宗専用の硯用の採石山、「御留山」からきているものとされる。

製作者は、硯職人の遠藤市雄さん。日本でも有数の硯職人さんで、今年の式年遷宮に合わせて、伊勢神宮からの依頼で硯を造り、ご奉納されたという話も聞く程である。

この私の持つ御留石の硯は、かつて市雄さんが硯職人の修行時代に造った代物である。作られてから数十年以上の月日が経つが、色褪せることなく、墨のおりも良く、至高の一面である。

その硯をどうして、遠藤夕幻が持つことになったのか。
そして、この一面の硯が繋いでくれた、市雄さんや雄勝町との物語、それを少しずつ語っていくことにする。

2008年 和歌山県潮岬 周辺

あれはまだ、日本一周の旅の途中。2008年の頃まで、話が遡る。

当時、私はまだ学生生活が終わったばかりで、書道道具を一式バイクに積み込み、なけなしの貯金で買い揃えたキャンプ用品と共に旅をしていた。生まれて初めての一人旅は、説明書を見ながらテントを設営し、雨の降る中の初野宿から始まったのだ。

決して「自分探しの旅」なんて青臭いものではなく、あくまで「自分磨きの旅」なのだ、と言い張っていたあの頃。今となっては、そんなことはどーでもいいことがよく解る。
旅は、どんな旅でも、等しく旅なのだと。
この旅に、意味があるかないかなんてことも関係ない。無理矢理意味を見つけ出そうとしなくても、自然とそれに気がつくときが来るものだ。それも、旅が教えてくれたこと。

書道家としても、一人の人間としても、今現在よりもさらに未熟だったけど、馬鹿みたいに毎日が楽しくてしょうがなかった。・・・それでも、この先自分の人生をどう進んでいけばよいのか、希望と不安が混在したまま、このまま書の道を進んでいってよいものか・・・と、今では揺るがない書の道さえ、決め兼ねていた、そんな頃の話。


愛用の道具4

旅の途中、出会った旅仲間に、広島県安芸郡で「筆まつり」というお祭りが開催されていることを教えてもらった。安芸郡は、『熊野筆』の産地であり、最近では女性の化粧筆などでも有名な場所だ。
どんなお祭りなのか気になり、関門海峡を抜けて九州を出て、広島県へと向かった。

その日、後の私の人生に大きく関わってくる人物と出会うことになるのだ。

偶然「硯の製作実演」のために宮城県石巻市雄勝町から来ていた、遠藤市雄さんと。


生まれて初めて見る、硯の製作実演。
白髪交じり小柄なおじいちゃんとは思えない程、硯を彫る大きな背中をした市雄さんを見て、衝撃が走った。

硯は、大きな特殊な形をしたノミを肩と鎖骨の間ぐらいに押し当てて、全身の体重をかけて彫っていく。腕の力だけでは彫れないのだ。そのけたたましい石の削れていく音と、その音に反した正確で繊細なノミの動き。だんだんと石が硯の形へと加工されていく光景は、当時の私を虜にして離さなかった。

2008年 広島県安芸郡 硯製作実演

しばらく、見学させてもらうと、当時恐れも知らない私は、市雄さんにどんどん話しかけ、その場で硯を彫る体験までさせてもらったのだ。そんなずうずうしい私にも、市雄さんは東北訛りの強い言葉で、それはもう気さくに硯のことを教えてくれた。

帰り際、書の道を志して旅していることを伝えると、市雄さんは自分の名刺の裏に住所まで書いて渡してくれ、「いつでも遊びに来なさい」と言ってくれたのだ。

あのときは、嬉しかったなぁ。

こうして、市雄さんとは、私の住む東京でもなく市雄さんの住む宮城県でもない、遠く離れた広島県で出会ったのだった。

愛用の道具5

それから2年後、2010年の夏。
私は、宮城県石巻市雄勝町にある市雄さんの工房にいた。

日本一周の旅は、途中で一時的に休憩をしたものの、まだ続いていた。北海道へと行く前に、市雄さんのところに寄ってから行こうと、もらっていた名刺の連絡先に電話したのだ。

2年ぶりに会う市雄さんは、相変わらず、元気な笑顔で私を迎い入れてくれた。久しぶりに会うことなんてお構いなしといった感じで、「遠慮すんな」 と工房の見学や硯を彫る体験をさせてくれ、さらには、自宅でお昼ご飯までご馳走してくれたのだ。

・・・たった一度だけ。たった一度、それもほんの小一時間程、硯の話をしたことがある若造に、ここまでしてくれたのだ。本当に涙が出る程嬉しかった。

私は、田舎暮らしの経験もなく、祖父母の家も実家から二駅ずつしか離れていない都会育ち。それが、コンプレックスだった。小学生の夏休み、田舎のおばあちゃんちやおじいちゃんちで遊んできたという、真っ黒に日焼けした友達をみて、秘かに羨ましく思っていた。学校のプールと家との往復がメインだった私の夏休み・・・。

そんな私にとって、この市雄さんの心遣いが、どれだけ嬉しかったことか、どれだけ心温かかったことか・・・。私にとっての、子どもの頃に夢見ていた田舎のおじいちゃんは、ここ雄勝町にいたのだと思えた。

そして、その際にこの記事の一番上の写真に載せてある 「硯」 をいただいた。

修行時代につくったという硯。奥にしまっておくより、あなたに使ってもらったほうがいいと、貴重な硯をなんの躊躇いもなく、私に譲ってくださった。


サイズ変更ウィザード-3

「また来年も、必ず来ます!市雄さんも、どうかそれまで、お元気で!」

そう約束し、私はバイクに跨り、北海道へ向けて出発した。
唸るような暑さの中、走り出すと風がすごく気持ちよくて 「あぁ、またここに帰ってきたいな」 と思った。

たった一日だったけど、田舎暮らしをしたことない私にとっては、市雄さんのいる雄勝町は、心休まる大切な場所になった。



ただ、このときは、まさかあのような大惨事に見舞われることとは、思ってもいなかった。


市雄さんとの再会を約束した1年後を待たずして、2011年3月11日・・・東日本大震災が起きてしまった。


市雄さんの住む、石巻市雄勝町も津波に飲まれ、跡形も無くなってしまったことを、震災から数日経ったあとニュースで知ることとなる。


脳裏をよぎった最悪の事態。
心配だったけど、大丈夫だ、大丈夫だ、と自分に言い聞かせた。
市雄さんに限って、そんなことあるわけない!・・・何度も何度も、そう思うように、そう思い込むようにした。


そう思い込むようにはしたけれど、当時は自分のことで精一杯だったし、なによりも市雄さんに連絡するのが怖くて怖くてしょうがなかった。壊滅状態なのに、電話が通じるのか、手紙は届くのか・・・。
結局、何かと理由を付けて、連絡することから逃げてしまった・・・。


そして、手元に残った、市雄さんが私にくれた御留石の硯。
この一面の硯が、私と市雄さん、そして雄勝町との関係を繋げてくれることになる。


雄勝硯物語 - 2 に、つづく。


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